◎人間が人間らしく生きる道を説かれる合楽理念は、普通なら私みたいな道ならぬことをして助かりようがないというところでも。それは自分に忠実であったということであり、お粗末とか、ご無礼ということではないと言われる。しかし、そこから人間が人間らしくというのには、教えにも忠実でなければならない。食べたいから食べる、飲みたいから飲む。それは自分に忠実であると言えばあるけれど、それに御の字を付けるというのは、ただ付けさえすれば良いというのでなく、教えに忠実になるということの為には、此方一心と定めいと言われるように、一心と定めての信心、教えを行じるということ。自分に忠実ということがバランスの取れたものとして、親先生が実感されてある天上界にあっては弥勤菩薩、地上界にあっては布袋和尚というような左右がバランスよく足ろうた世界に住めるのである。合楽ならではの人間が人間らしく、御の字を付けた生き方は、此方一心と定めての信心から詫びる姿勢も出来、教えに忠実になっていく所に、詫びれば許してやりたい親心にも触れて行くことが出来る。


昭和五十六年八月三十日 朝の御理解


X御理解 第三十六節 日本国中のあらゆる神を皆信心するというがそれは余りの信心ぢゃ。人にものを頼むにも一人に任すとその人が力を入れて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば相談にくれてものごとはかどらず、大工を雇うても、棟梁がなければならぬ。草木でも芯というたら一つぢゃ、神信心もこの一心を出すとすぐにおかげが受けられる。


%1昨日は変わったお取次ぎをさせて頂きましたが。生きる希望をなくしたという、または道ならぬことをして問題をおこし合楽の金光様はどんなお願いでも聞いて下さるという話ですから、道ならぬことをした私でも助かることが出けるだろうかと。
%1この方は、ある教会で信心の稽古をしておる。合楽で、人間が人間らしゅう生きてというような話をまあ聞かれたか、読まれたのでしょうか。という内容、まあ赤裸々にお届けをされましたが。成程やっぱりそれは普通聞いておったら道ならぬ事ですねと私も言うようなことでした。
%1けれども今日の合楽での合楽理念をもってすると、それはあなたは道ならぬ事と自分を責めておられるけれども。それは謂わば人間が人間らしゅう生きるというか。云うならば、あなたは自分に忠実であったというだけであってね。自分をごまかさない、したい事をする。まあ自分に忠実であったと云うことですから、私はそんなにご無礼とか、道ならんということぢゃないと思うけれども。問題はね、あの神様のみ教えにも忠実でなからなければ合楽で言われる人間が人間らしゅうということには言われんのですよ。というお取次ぎをさせて頂いきながら、私自身なんか感じるものがあり分からして頂くものがあったように思うんです、ね。
皆さんね。まあ普通で言うなら道ならぬ事。けれども私はそれを聞かせて頂きながら。それはあなた、悪いという実際言うたら悪いことぢゃない。ただあなたがあなた自身に忠実であったということなんだ。云うなら他の者の真似の出来ん事をスパッとやってのけられたということなんだ、ね。
だからもう合楽の生き方で行くと道ならんという事ぢゃないですよと。云うならば御の字を付けていけばということなんですけれども、その御の字をつけるということが問題なんです。その御の字を付けるということがなら神様のみ教えにも忠実でなからなければならんということ。だからおかげにならん、ね。
云うなら人情と神情とがね、こうバランスのとれた生き方。そういうところにです、今日の御理解の、一心をと、こう仰って居られます、ね。人にものを頼むにも一人に任すとその人が力を入れて世話をしてくれる。その人、そこに一心というものが定まると、なら例えばあなたが言っておる。道ならぬ事というても、そこに詫びる姿勢が出来、そしてだんだん分からして頂くと。成程、先生あなたが言われるように私は私自身に忠実であったということであって信心頂いておってそこが分からなかった。
どこが分からなかったかというと、神様のみ教えに忠実でなかったということになるのだと。だからここでは神様のみ教えにも忠実にならせて頂きます、これからは。
ある大きな教会の御信者なんです、ね。ですから云うならばそこで初めてですね、バランスがとれてくる。人情と神情。云うならば一切のことに御の字を付けてという、御の字が生きてくる。
私はここんところを説きながらね、御の字というけれどもね。合楽の御の字というのは、御教えに忠実であるということから生まれて来る御の字ぢゃあなからにゃあいけん。一切を御事柄として頂く、ね。または御物として頂くということはその事、その事自体が信心でしょうが。ただ御の字を付けさえすりゃあよかというのぢゃあないのです。
そして合楽で言われる、人間が人間らしゅう生きる手立てというのを、ただ自分に忠実である、ね。飲みたいから飲むんだ、食べたいから食べるんだ。それは自分に忠実なんです、ね。そこをわざわざ辛抱せんでもいい。頂きたい時には頂きなさい。食べたい時には食べなさい、ね。
けれどもそれに御の字が付けられるかどうかというところなんです。その御の字ということがどういうことかというと、ここを皆さん今日はいっちょ分かって頂きたいと思う、ね。そこが云うならば自分に忠実であるということを、同時に神様のみ教えにも忠実であるという内容が、御の字の中には入って来るんです、ね。
そこに、はじめて詫びれば許してやりたいと云ったような働きも起こって来るし、それが云うならば、こう何と言うですか、コントロールが出けますね。人情と神情のコントロールがなされる。お互いがおかげが受けられんのは、その辺のところが、所謂アンバランスになっておるということであります。
私は本当に思いましたですね。合楽で頂くその神ながら主義というか、ということはそのまま人間が人間、自分自身にあの忠実ということなんですよ。だからそれはそれでいいと言うんです。人間が人間らしい生きて行くということは。けれどもそれは、なら御の字が付けられるかどうかということなんだと。
そのなら御の字の内容というものは、神様のみ教えにもまた忠実でなからなければならないということ、ね。云うなら教えにも忠実でなからなければならないということである。
%2まあ私のことを、あのいろいろ表現して下さる中に、大黒様というような表現で。『今、私のこの控えの間に布袋和尚の絵が掛っております。それに天上界においては弥勤菩薩ね。人間界においては布袋和尚という讃が書いてあります。
%2合楽の軸を頂いた時に、これは頂いた御理解でしたけれども、ね。同じ云うならば福徳円満なと言うでしょうかね。に恵まれておるという意味でしょうけれども。私がここお広間に居る時にゃ大黒様そのままである。私がひとたびなら自分の部屋に下がったら布袋さんにもね。いろいろ本当なものと嘘とあるんです。
%2私ゃ御理解頂いて分かった事ですけれども。布袋さんというのはあれは普通買うとね、こうなんて言うですか、あのう団扇のようなのを持っておられますでしょう。それを右の腕にこう持ったのはあれは嘘です。本当は左手に持ってるのが本当の布袋さんです、ね。だからあのう楽に生活をしておる人のことは、あの人はもう左団扇とこう言うでしょうが。だから左に持っておる布袋さんぢゃあなからなければ本当の布袋さんを表現したと言えない。
%2それがお供え頂いとるのが、布袋さんであり。それから大黒様では、右手に打ち出の小槌を持っておられるけれども。これは合楽の大黒様は必ず左手に、打ち出の小槌を持っておるんだと言われておるから、合楽で作っておる、皆さんがあのお祭りしておられる大黒様は皆左に持っておられるでしょうが打ち出の小槌を、ね。
%2左と右が足ろうていく。はじめてバランスがとれた。そんなにいつも云うならば、ここで紋付袴を付けてきちっとしとるようなわけばっかりにゃあいけない。部屋に下がったら、云うなら湯上がりにも着替えさせて貰う、ね。それこそお腹を出して、こう出してそしてこう左団扇でやっておるといったような状態。けれどもです。そこにはもうきちっとした、もう一分のすきもない程しのバランスが取れておるということである、ね。』
私自身にも忠実であると同時に云うならばその反面、神様の教えにもいよいよ忠実であるということである。はじめてそこに、人間が人間らしゅう生きる手立てという生き方は、こういう事だなあと、皆さん分かるでしょう。まあどうでも分かってもらわにゃあいかん、ここん所を。
人間が人間らしゅう生きると云うことは、御の字さえ付けてとこう言う。その御の字そのものが信心でなからなければならない。教えに忠実でなからなければ御の字は実際には付けられんのだということですね。そういう例えば信心を分からせて頂くという事は一心を立てなければ分からないです、ね。
しかもその一心というのは、その一心を出すとすぐにおかげが受けられるとかね。例え人にものを頼むでも、多くの人に頼べば物事捗らず、此方一心と頼めば、云うならばその人が力を入れて世話をしてくれるといったような働きが、そのまた向こうにそういう働きが起こって来るのです、ね。
私は云うならば教えを行ずるということと、なら人間心で行くということを、そのまあ半分半分に致しましてもですね。自分にも忠実であると同時に神様の御教えにも忠実であるというこのバランスが壊れたらおかげになりません。御の字の内容が信心でなからなければならんということを一つ難しいですから、もう一遍ようとあの自分自身のそれこそこれに納得がいくように、もし分からないなら何遍でもいいからどうぞお願いをしてお取次ぎを頂いて分かって頂くように。
今日は、そういう信心が出けるということはもう此方一心と定めたもんの所からしか分かりもせんし、また体験も生まれてこないです。なら合楽ぬきにしてです。なら私ゃ教えも、教えも行じよる。いや自分にも忠実、神様にも忠実と他の人が言うたぶんぢゃあこりゃあもう、これはね通用せんです。金光様の信心と言いたいけれども。本当は合楽にご縁を頂いたもんでなからないと、今日私が言うた事は通用しないです。
ですから合楽一心と、皆さんが定められなければ分からん、出来ん所でしょうが、ね。合楽一心と定めると同時に、いよいよ教えに忠実でありたい。同時にまた、自分に忠実である。そこん所を云うならば人間が人間らしゅうというふうにあの曲解するとね。ただその御の字が御の字を付けさえすればよかごたるふうになって来る。御の字というのは、信心の内容があっての御の字であるということです、ね。どうぞ。